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第126回 高野長英紀行 〈その2〉
長英の暮らした家
 宇和島市~西予市
 今回は、高野長英が逃亡の日々に、南伊予で暮した家を訪ねてみた。 宇和島市の横新町の家、そして、卯之町の二宮敬作の家の離れ家と渡辺家の隠し部屋である。


かつて長英が匿われた卯之町の渡辺家
長英の暮らした家
 宇和島藩主伊達宗城の強い意志で招かれた高野長英が宇和島に着いたのは嘉永元年(1848年)4月2日、今から約160年ほど前のことであった。長英は、宇和島到着後、しばらくして家老桜田数馬の横新町の別宅に移り、宇和島滞在中の殆どの日々をそこで起居した。その家が現存している。JR宇和島駅前から、宇和島国際ホテルに向かって山側に道を入り、ホテルの先の辰野川に架かる小さな橋を渡って右手の道に入った2軒目の家である。
 当然、ずいぶん姿を変えてはいるが、幸いなことに、空襲に遭った宇和島市街の元あった場所に、昔を思わせる姿で今も建っている。
 先ず、挿図に載せた、写真を見ていただきたい。戦前に出た、高野長運の『高野長英傳』の写真は長英が暮した奥座敷と中庭のものである。奥座敷は、前に訪れた時は近くの居酒屋の休憩所になっていて、中を見せてもらったこともある。今も、本質的に建物と庭の位置関係、構造や配置はこの写真とほとんど変っていないと思う。次に、戦後しばらくたった昭和33年に出た野田宇太郎が自分で写し『四国文学散歩 愛媛』に掲載した写真。これは、表側から見た様子である。この写真を見ると2軒連なった昔の家の様子がよくわかる。家の前に立った記念碑の位置が現在の写真と同じ場所であるから、2つの写真を比較すると2軒続きだった家が改装された様子がよくわかる。
 長英の当時の様子を想像するには、辰野川に面した奥座敷を小さな橋の上から眺めるとよい。吉村昭の『長英逃亡』から引く。
「翌日、長英と昌次郎は、冨澤の案内で町会所を出ると、横新町裏にある桜田佐渡の別荘に行った。土間から上がり奥の八畳間に入った。障子をあけると、清い水の小川が流れ右手に小さな橋がある。おびただしい小魚が、鰭を光らせて流れにむかって泳いでいた」
 辰野川に架かる橋の上に立つと、その出窓のある奥座敷が左手に見える。新しいものに目をつむると、長英が暮した時代がそれほど遠くはない気がしてくる。
 幕府のお尋ね者であった長英は宇和島滞在中、蘭学者伊東玄朴の門人伊東瑞渓という変名で通した。4人分の扶持米と申し出に応じて支払われる臨時払いの翻訳料とを報酬として受け、藩命を受けた谷依中、土居直三郎、大野昌三郎、シーボルトの鳴滝塾の同窓二宮敬作の子、逸二に洋学を教授し、伊達家所蔵の蘭書の分類と整理、「砲家必読」等の翻訳、砲台の設計を行った。
 長英は、この家に若党一人、僕一人、婢一人と暮らしたが、「婢」とされる女性は、「とよ」という名で、長英との間には子供が出来ていたと伝えられる。
長英の碑
家の表側に立って、写真にある御影石の小さな石碑を見る。「瑞皐高野長英先生居住之地 後藤新平書」とある。瑞皐というのは、長英が蛮社の獄で投獄され、入獄3年目に書いた『蛮社遭厄小記』で自分のことを呼んだ号である。長英は同書に「戊戌の年 (天保9年1838年)、瑞皐深謀なく、直ちに国家の忠言と心得、夢物語というものを書き認めけるに、不幸にして、一時諸方に伝播し、讒者機に乗じて官に訴えければ、己亥の年(天保10年1839年)、瑞皐は永く囚となり、学斎(小関三英)は自殺し、蛮学これによりて、遂に衰えぬるこそ遺憾なれ」と書き、「孟子」の「善く戦ふて上刑に服す」という言葉を引いている。世のために善く戦うものこそが結局重い刑罰に処せられるというのである。饑饉に対する現実的な飢餓予防策や、防疫策を啓蒙し、国防に対する提言をした揚句、讒言で生涯獄につながれるという処断を受けながら、死を賭して破獄し、生涯奮闘した長英の思いは、察しても余りあるものではないか。
裏面の碑文には「大正14年11月後藤子爵はこの地を訪れ、史実を明らかにして追懐禁ずる能はず」などと書かれているはずであるが、建物がぴったりと碑の裏面にくっつき、「追懐禁ズル能ハズ」というあたりが辛うじて読み取れる状態だ。関東大震災の復興で知られる後藤新平は長英と同族で岩手県の水沢に生まれた人であった。(長英はもとは後藤姓で母の実家の高野家の養子となった) 長英と同じく医師でもあった後藤が、あらぬ罪を得て破獄逃亡の果てに、故郷の水沢を遠く離れたこの南国の小さな古い家で蘭学を教授して暮らした長英の身の上を思い、深い感動にとらわれたことは想像に難くない。
 吉村昭の『長英逃亡』とともに、私は鶴見俊輔の『高野長英』(朝日選書)を愛読しているが、鶴見の母が後藤新平の娘であるから、鶴見も長英の血脈にある。鶴見は、祖父の揮毫した碑について語っていない。しかし、長英がこの家で教えた4人の宇和島の生徒のために書いた学則の全文を同書に引いている。
 長英の学則には「学問の道は、須く雫の石を穿つ如くせよ」「今それ西洋の書たるや、その文字蟹行(カニが横に歩くように横書き)、その音鴃舌(鳥がさえずる音)にして、語脈の連なる所、文意の繋がる所、前後錯雑、紛々として規律なきが如く」に見えるが決してそうではない。天体の運行に比すべき厳密な法則がある。だから朝に習い、夕べに声に出して読み心をこめて学べばどんな本でも必ず理解できる。「自暴自棄は、則ち吾徒にあらざる也」とある。
 鶴見は学則を紹介しながら、長英が学問の中で「ロジック」、則ち広い意味での論理学、思索の方法論を最も高い位置に置いたことを感動的に記している。西洋の事物を無批判に受け入れるのではなく、よく自分の頭で咀嚼しなければならないと長英は説いたのであった。

- 渡辺家の鳥居門 -

- 卯之町中之町の町並み -
卯之町へ
  宇和島に幕府の手が伸びた後、長英は今は西予市となった宇和町の卯之町で開業していたシーボルト塾の同窓、二宮敬作に匿われる。初めは、中之町の敬作の家の離れ家の2階に、滞在し、次いで渡辺家(当時は大庄屋清水甚左衛門の屋敷)の隠し部屋へ移る。  敬作の家の離れ家は長英が匿われた2階のみが元の場所に保存されている。渡辺家は当時の大庄屋の結構のまま、豪壮な鳥居門も、長英の隠れた百姓一揆に備えた隠し部屋もそのまま現存している。隠し部屋の様子は、吉村昭の『長英逃亡』に見事に描写されている通りで、時々公開されてもいる。
 渡辺家や、敬作の離れ家がある中ノ町界隈は、長英や、敬作に養育されたシーボルトの娘イネたちがいた頃の雰囲気を町のそこここに残しているし、歩いて山道を越えると四国八十八ヶ所の札所である明石寺もすぐそこだ。
 私は久しぶりに町並みを散策した後、帰りに渡辺家の主屋にあるギャラリー・カフェに立ち寄った。豪壮な梁を眺めながら、おいしいコーヒーが飲める。

〈参考〉
日本思想体系55『渡邊華山 高野長英他』佐藤昌介他編(岩波書店)・
『長英逃亡』吉村昭・『高野長英』鶴見俊輔
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1996-2012


高野長運著『高野長英傳』所収の奥八畳間と中庭の写真
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長英が暮した八畳間の現況。基本的には当時のまま

卯之町の渡辺家
白漆喰の格子窓の中が隠し部屋になっている。

野田宇太郎『四国文学散歩 愛媛』所収の表側の写真

現在の表側の様子

隠し部屋の内部

卯之町の二宮敬作の家の離れ家。主屋は現存しない。