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第66回 シーボルトの娘が歩いた道
 
吉田町編 
 今から150年近くの昔、安政2年(1858年)に、日本の女医の嚆矢であるシーボルトの娘おイネさんは卯之町から宇和島城下神田川原の村田蔵六の居宅まで、片道約26キロの道を通い、洋学を学んだ。吉田の陣屋町から黒の瀬を越えて29歳のシングルマザーおイネさんが医学で身を立てる一念で歩いた道の一部を辿ってみた。

 横堀から
 まず、吉村昭の小説『ふぉん・しいほるとの娘』を引く。
 「2月1日早朝、お稲は弁次郎とともに敬作に連れられて家を出た。村田蔵六の授業を正式に乞いに宇和島へ赴くためであった。……息をあえがせて坂をのぼり、峠に達し茶屋で休息をとった。……山路をくだり立間村を経て吉田の町に入った。そこは宇和島藩の支藩吉田藩3万石……卯之町から約3里の位置にある」。
 おイネさんはおそらく、朝の5時頃に、敬作や、その甥弁次郎(後の三瀬周三)とともに、卯之町の医師二宮敬作の家を出発したであろう。法華津峠を越え、7時前には吉田の町中に着いたにちがいない。私の歩き始めは、吉田の町中、横堀にかかる桜橋で、よく晴れた日曜日のお昼過ぎである。
 17世紀中頃に宇和島藩から吉田藩が分かれ、その政治経済の中心として陣屋町が葭の繁る河口を埋め立てて急造された。横堀は海に流れ込んでいた2つの川を結び、町人町と武家の住む家中町を区切る結界にするために掘られた人口の水路である。今も古い石垣とわずかながら雁木とよばれる船着場の跡が残っている。
 陣屋町吉田の面影を伝える古い建物はほとんど失われてしまったが、それでも町を歩いていると、小さな武家屋敷や、商家、職人長屋の断片、寺や神社など江戸時代の建築がところどころに残っているのに気が付く。国道56号が通った部分を除いては、陣屋町の町割りがそのまま現在の道路になって残っているし、水路の跡もはっきりしているから、昔の町の様子を思い浮かべる手がかりもある。おイネさんたちは、桜橋を渡り、商家の建ち並ぶ本町通りを通って、先を急いだであろうが、少し寄り道すれば、格子状になった町人町には今も町歩きの楽しみに満ちた路地が生きている。本町を過ぎ、界橋で小さな水路を渡ると、吉田湾にそった水軍の町、御舟手である。今の吉田ではもっとも昔の佇まいを感じさせる場所であろう。御舟手の町の先で道は、車の通行が激しい国道に突き当たる。そこからは湾にそって、そのまま国道を10分ばかり歩かねばならない。おイネさんたちの頃、道は今の予讃線の線路の向こう側の山裾に続き、またトンネルの先あたりで海岸に下っていたと言うが、今はもうよくわからない。海沿いの狭い土地に、国道と鉄道が通り、さらに蜜柑山に上がる新しく作られた農道や、新しい宅地への道が入り乱れていて、土地のお年寄りに聞いても、150年前の往還をこれと教えてくれる人はなかなか見つからなかった。
 知永(ちなが)
 国道が左に折れて知永峠に登る手前、予讃線がトンネルに入る辺りで右の吉田湾沿いの県道宇和島吉田線に入る。海沿いの県道から左の谷に広がる集落、知永は江戸中期の宝暦年間(18世紀中頃)にひらかれた。おイネさんが通った頃は、吉田湾に面した小さな半農半漁の村だったと思われる。現在のやや古風でどっしりしたつくりの家々はほとんどが、大正末か昭和の初め、柑橘栽培が始まった後に建てられたものであろう。軒がくっつき合うように建てられた家と家の間を通るひっそりした旧道を歩いていると、タイム・スリップしたような感じがする。旧道と直角に走る路地が交差する度に海岸を走る県道の方から明るい光が漏れてくる。家並みの尽きる辺りで潮入の水路にかかる小さな橋を渡った。左手に門島神社の森を見ながら右に水路に沿って進み県道にもどった。旧道は集落のはずれの墓地のある山手に延びていたが、ここから200メートルばかりは、ひどく荒れ果てているという。県道に出ると、いきなり急坂が始まる。S字の坂を1回登ったところで左の蜜柑畑への農道に入り、50メートルほど登る。道が右に折れる手前、左手にコンクリートの円形の水槽、右手にカンナの花の大きな葉が繁っている場所が、いったん下で途切れた旧道の入口である。
 黒の瀬を越えて
 私はこの蜜柑畑の中に残る旧道について、吉田の町から旧制宇和島中学の寒稽古に通ったという叔父に聞くまでは、その存在さえ知らず、昭和30年代につくられた桜並木の県道が昔の道だとばかり思っていた。しかし、下の集落や吉田の町、はるか法華津峠の方を振り返ってみると、九十九折の県道とは違い、旧道がまっすぐにここまで延びていたことがよくわかる。右手に真っ青の吉田湾を見下ろしながら、実が黄色く熟した蜜柑畑の中を心地よい登りが続く。おイネさんの頃は、蜜柑畑ではなく、まだ開拓される前の雑木林であったろう。今は多少、草が茂ってはいるが、路肩の石垣も堂々として歴史を感じる。行き違う車に気を遣いながら下の県道を行くのとは大きな違いだ。15分か、20分で登り切るが、卯之町から宇和島への「おイネ通学道」の中でもこの部分はハイライトの1つになると私は思う。
 薬師堂
 登り切って、道が山の木々の間に入り、少し先で県道とまた合流する。そこが吉田と宇和島の境である。「宇和島市」の標識がある堀切の左手一帯に昔、吉田藩の刑場があったという。いまは蜜柑畑になっているが、山の上にはまるで古墳の石組みのような巨大な自然石が露出していて、どことなく凄まじい雰囲気がある。刑場の正確な場所は判然としないが、いずれにせよ、日が落ちてからここを通るのは気持の良いものではなかったと思われる。私は刑場跡から、1キロほど先の薬師堂まで下った。お堂は昔は道のわきにあったそうだが今は少し上に移してあった。上がってみると、小さな石仏のある手水鉢に打ち抜きの清水が溢れている。叔父によると、戦前はこのお堂と道路を挟んだ向かい側に「てんや」と呼ぶうどんや、いなり寿司などを食べさせるなんでもやがあって繁盛していたそうだ。「てんや」は傾斜地に建つ2階建てで、上の2階部分が道路の面で店になっていたという。叔父は吉田から宇和島までの通学のバス賃や汽船代を浮かせて、時々買い食いをしたと話していたが、今はまるで跡形もない。「おイネ通学道」の命名者、毎日新聞の佐竹編集委員が踏査されたときに、この薬師堂に、おイネさんが通った1年前、嘉永7年(1854年)の石灯籠を確認された。前出の吉村昭の小説に嘉永7年は地震の多い年で近畿地方や土佐で大きな被害が出た年であったことが書かれている。おイネさんも宇和島に通学する日に真新しいこの石灯籠を見て、薬師堂に賽したかもしれないなどと思う。
 時計を見ると、午後3時半近くだった。私は急いで道を引き返し、刑場跡の辺りを足早に過ぎて蜜柑畑の中の旧道に出た。少し歩をゆるめ、西日を背に受けながら明るい吉田湾の景色を眺めながらゆっくりと下った。

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1996-2012


知永集落を通る旧道
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吉田町陣屋町にある長福寺山門

黒の瀬から吉田湾を眺めながら旧道を下る

吉田藩の刑場があったあたり