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第28回 道後散歩
赤穂浪士の絵馬と一遍上人の生まれた寺 
 
 蒸し暑い夏の日の昼下がりに、道後温泉駅で市電を降りて、駅前の坂道をまっすぐに上った。老舗の温泉旅館ふなやを通り過ぎると、正面に伊佐爾波神社の急な石段が見えてくる。

 赤穂浪士の絵馬
 40年に近い昔のこと、この坂道を通って伊佐爾波神社のとなりにあった道後小学校に通っていた。今、1時間ごとに音楽が流れて、小説「坊ちゃん」の登場人物が現れる仕掛け時計のある駅前の小さな広場は、その頃には、御影石の手摺で囲まれた四角い池であった。手摺を背にして毎日、たこ焼屋の屋台が立った。うすく色のついた丸いめがねをかけ、ねじり鉢巻きをした小柄なおじさんが、メリヤスの半袖の下着に腹巻きをした姿でたこ焼を焼いていた。私たちは、よく、その店で禁じられた買い食いをした。タコはかけらほども入っていなかったが、そのかわりに、揚げ玉がたっぷりと入っていた。おじさんは、千枚通しのような道具を器用に操って、くるくるとたこ焼をまわしながら表面をぱりぱりに焼き上げる。私たちは、その屋台の甘いソースの味がお気に入りだった。
 坂の中腹にある「ふなや」は子供心にも格式を感じさせる和風の豪壮な構えの旅館で、玄関に黒塗りのキャデラックがよく止まっていたのをおぼえている。鉄筋の大きなホテルになったふなやの前を過ぎて、伊佐爾波神社の石段の前に立った。右隣にあった、道後小学校はとおの昔に移転し、かつての運動場や校舎の跡にはメルパルクやにぎたつ会館が建っている。しかし地形は、ほぼそのままだから、なんとなく当時の様子を思い浮かべることが出来た。
 当時の私たちは、昼休みや放課後には、毎日のように背後の山や、すぐ隣の伊佐爾波神社の山にあがって遊んだ。高学年の頃であったと思う。下校時に、運動場の脇から伊佐爾波神社の山に上がり1人で社殿の裏側に出た。回廊の瓦屋根の上にも雑草が生い茂り、壁の表面が落ちて土壁が見えていた。回廊の横の入口から中に入ると、雨が吹き込んだせいだろうか、床の土間が、かなりでこぼこしていた。その人っ子1人いない、薄暗い回廊の中で私は面白いものを見付けた。「あっ忠臣蔵」。もし、同級生が一緒だったら、私は得意げにそう叫んでいたに違いない。ふと見上げた回廊の長押に忠臣蔵の武士たちの絵馬がずらりと並んでいたのである。当時は東映や松竹の正月映画と言えば「忠臣蔵」という時代であったから小学生の私でも赤穂浪士のヒーローたちの何人かの名前くらいは知っていた。大石蔵之助、主税の親子、堀部安兵衛、不破数右衛門、…… …。時が経つのも忘れて、私は知っている義士の名前を探しながら回廊をめぐった。
 消えた絵馬
 ずいぶん久しぶりに、石段を上がってお参りした。国の重要文化財になった伊佐爾波神社は解体修理が施され面目を一新していた。不謹慎ではあるが、私の関心は赤穂浪士の絵馬にあったから、そそくさと拝礼してすぐに、回廊にまわった。ところが肝心の絵馬がないのである。少しばかり気落ちしたが、念のためにと思い、床に下ろして壁に立てかけてある大きな絵馬を見てまわった。1点だけ義士全員を1枚に描いた絵馬を見つけた。嘉永という江戸時代末の年号が記されている。蕎麦屋の2階に集結したところか、本懐を遂げたあとに泉岳寺に墓参したところかは、はっきりしない。絵も細かく見事な絵馬ではあったが、表面を埃がうっすらと覆い、色褪せていて、1人ずつの下に書かれた義士の名前を読取るのも難しい。いずれにせよ、小学生のころに見た1人1人の義士を描いたなつかしい絵馬には比すべくもなかった。
 社務所に寄って絵馬の行方を尋ねてみた。出てこられた宮司さんの奥さんの説明によれば、先だっての祭礼のときに心無い輩により、義士の絵馬の何枚かがひどく傷められてしまったのだそうだ。それでやむなく、収納庫にしまわれたとのことである。
 この神社に赤穂浪士の絵馬があるのは、神社を寄進した松平侯が赤穂浪士を江戸の藩邸で預かり、潔く切腹させた縁につながることや、幕末の飢饉を鎮めるために掲げられたものであることを伺って辞去した。
 一遍上人の生れた寺
 社殿の背後の駐車場にまわると隣の山裾に、時宗の祖一遍上人の誕生地とされる宝厳寺の山門や本堂が見える。私は、見晴らしの良い場所に立てられた地元歌人の大きな歌碑の後ろ側にまわって宝厳寺境内の景色を眺めた。大きな銀杏の木が見え、こじんまりした楼門のかたちや年経た瓦の色が美しい。一遍上人は時宗の開祖で、法然、親鸞と並ぶ念仏門の巨人である。「南無阿弥陀仏」の6字だけによる厳しく純粋な立場に立って、全国を遊行念仏し、踊りながら念仏を唱える踊念仏や、南無阿弥陀仏の6字を記したお札を配る賦算など、独特の布教で「いかに生きるべきか」を民衆に説いた。上人は延応元年(1239年)、源氏の家人である伊予の豪族河野通広の子としてこの地で生れた。
 伊佐爾波神社の駐車場の脇から宝厳寺に通じる道を下った。寺のすぐ前はかつての遊廓、色町であった。注意深く眺めると改装されてスナックになっている建物も昔の遊廓の建物であったらしいものが多い。その色町に鼻をつきあわせて宝厳寺の境内がある。聖俗が向き合った独特の雰囲気に強い印象を受けながら山門をくぐった。境内は静かで楚々とした別世界である。はいってすぐに子規の有名な句碑がある。

 色里や
 十歩はなれて
 秋の風

 明治28年10月6日、夏目漱石と道後に遊んだときの句である。子規は一遍上人のことを古往今来、当地出身の第1の豪傑なりと言っている。お願いして、本堂に上がり一遍上人の木像を拝観させて頂いた。
 彫像は本堂右手奥の金色の厨子に納められていた。裸足で手を合わせた一遍上人は小声で「南無阿弥陀仏」と唱えられているのだろうか、両の眼は虚空の1点を凝視し、唇を少し尖らせられている。私には、上人の表情がとても孤独で厳しいものに思えた。

〈参考〉
『道後温泉(増補版)』(松山市)、『南無阿弥陀仏』柳宗悦(岩波文庫)、『一遍』大橋俊雄(吉川弘文館)、真山青果作『元禄忠臣蔵』(岩波文庫)

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1996-2012


赤穂浪士の絵馬。松山藩4代目藩主松平定直が幕府から預かった赤穂浪士は、大石主税、堀部安兵衛、大高源吾ら10人。大高は子葉という俳号を持つ俳人。辞世の句「山を裂くちからも折れて松の雪」。
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回廊

伊佐爾波神社から見た宝厳寺

門前に残る遊廓の建物

宝厳寺門前

子規の句碑
「色里や 十歩はなれて 秋の風」

松が枝町の入口「ネオン坂歓楽街」とある。突き当たりが宝厳寺である。

厨子に納められた一遍上人の彫像。歌人川田順がこの木像を見て書いた詩がある。「……いたましく頬こけおちて おとがいも しゃくれ尖りて 眉を長く 目見の静けくたぐひなき敬虔をもて 合わせたる掌のさきよりも光さえ放つと見ゆれ 伊予の国 伊佐爾波の山のみ湯に来て為すこともなく日を重ね吾は遊ぶを この郷に生まれながらもこのみ湯に浸かるひまなく西へ行き東へ往きて念仏もて勧化したまふみすがたをここに残せる 一遍上人」

宝厳寺境内