過去の連載記事
同じ年の連載記事




第49回 宇和町民具館への旅
 
愛媛県東宇和郡宇和町 
 長い間、プレハブづくりのままだった東宇和郡宇和町の民具館が新しく立派に建て直されたと聞き、久しぶりに卯之町の町並み散歩に出かけた。

 町並みを歩く
 JR卯之町駅から、国道を越え、「宇和文化の里」の桧の門をくぐり、突当りを右に折れ、街灯に「中心街」という小さな看板がぶらさがった商店街を歩いた。ソフトクリームを売る古びた菓子屋の2階にアーチ窓があったり、かつて小児科医院だったという豪壮な商家の建物があったりする。銀行の支店があり、花屋や魚屋、写真館などさまざまな商店が連なっている。
 昭和のはじめに建てられたえびすやという木造3階建の料理屋の先の角を左に曲がり、ゆるやかな坂道を上がると、すぐ左手にシーボルトの弟子でその娘イネを女医として養育した二宮敬作の住居址があった。少し先の右側には、豪壮な門がある屋敷が見える。逃亡中の高野長英が隠れた部屋が残る渡辺家である。この辺りから少し先の元見屋の酒蔵を左に折れて続く町並みが卯之町の歴史地区中町の核心部である。
 中町の通りの北側には平入り、南側は妻入りの建物が多い。四国地方には妻入りの民家はめずらしく、しかも平入りと妻入りが併存した町並みはとてもめずらしい。いつ来てもかわらないなつかしい風景だが、電柱が通りの背後に隠されてから空が広く感じられるようになった。
 宇和町民具館
 宇和町民具館は、この中町の町並みの中ほど、国指定重要文化財になった西日本最古の木造洋風建築の小学校開明学校の手前にある。
 粗末なプレハブの倉庫のような建物に、宇和町の家々で、私たちの父母や祖父母が生きた時代に使われた生活の道具、祭りの装束などが数多く集められ、展示されてからもうずいぶんの年月がたつ。
 今は見当らないが、たしか正面には二宮敬作の大きな顕彰碑が建っていた。(※雨山公園に移された)
 集められた民具は、それぞれの時代にどこの家庭でも、ごく普通に使われたもので、今流行の「お宝」のように骨董的な価値があるものではないが、人々の暮らしを生き生きと伝えるものばかりだった。足の踏み場もないくらいの展示を見るたびによくもまあこんなに集めたものだなあという感慨に襲われた。丁寧に遠慮がちに説明してくれる親切な係の人の態度も快かったし、山と積まれたありとあらゆる民具が発する不思議なあたたかさにとらえられ、つい長居をしてしまうことがあったものだ。
 宇和の人々の暮らしを私たちや、その先に来る世代に伝えようという熱意が感じられるプレハブの民具館が私は嫌いでなかった。
 新しい民具館は、開明学校の見学受付を兼ねるため、通りに面した入口は締め切ってある。石畳の光教寺への参道を上り、開明学校の向い側の正面玄関から新しい民具館に入った。日曜日だったが、ちょうど見学の人の波が途絶えたときで館内に人影はなかった。鹿おどりや牛鬼の頭など祭の道具からはじまって椀から皿、重箱、桶、まな板、おろし金などの調理道具、手押しアイロン、蓄音機など、以前と変わらぬ品揃いだが、ずいぶん整然として見やすくなっている。「展示物に手をふれないで下さい」と貼り紙があるが、思わず、手に取ってふれてみたくなるものばかりであった。
 模型の町
 かつて卯之町にあり、惜しまれつつ取り壊された栄座という劇場の看板や映写機などもある。掲げられた写真を見ると、今では全国に知られる内子町の内子座にまさるとも劣らぬ建物のように見えた。
 次の部屋には、中町の歴史を解説したパネルと大正期の中町の精細な模型があった。この模型はすごく凝っていて面白い。中町には現存する建物が多いから今の町並みと模型を比べて失われたものを知ることができるし、また、逆に現存する建物を見つけて当時との違いを知ったり、当時の様子を想像する楽しみもある。 
 お遍路さんが歩き、荷車が通り、子供たちが遊んでいる。人通りが絶えない模型の町を私はしばらく飽きることなく眺めていた。
 現実には町並みの修復は大変に難しい。歴史地区においてさえ、さまざまな理由で、復元の真実性をないがしろにした、修復工事がなされることも少なくないのが現状であろう。歴史地区のまちづくりに多くのすばらしい実績をもつイタリアの例をあげるまでもなく、美しく、わかりやすい模型などを使って自治体が、町並みの保存修景の目的と方法をはっきりと具体的に示し、地域に暮らす人々の合意形成を図っていくのはとてもいいことだし、必要なことだ。
 この模型には、私たちが生まれ育ち、暮らしている町が積み重ねてきた歴史的、文化的価値への無関心のひろがりが、歴史的町並みや地域固有の文化の破壊を進め、豊かな自然環境と町の個性の喪失を導いてきたことに対して反省を促す力があると思った。
 湯たんぽと蓄音機
 隣の部屋には囲炉裏があり、一時代前の暮らしの一端が再現されていた。そこから階段を降り、復元された町屋を見て、1階の収蔵庫に入った。陶器の湯たんぼ、火鉢、など同じ形のものがきちんと新しい木製の棚にならべられている。陶器の湯たんぼの形がすばらしい。人の手でつくったやさしい形。素朴で自在なうずまきの模様がおもしろい。
 隣の棚には蓄音機ばかりが並んでいた。木の細工が美しい大型の物から、持ち運び用に鞄の形をしたものまである。SPレコードもあった。浪曲や童謡の盤に混じってコルトーが弾いたショパンのバラード集やトスカニーニ指揮NBC交響楽団のモーツァルトのト短調交響曲などの盤が目についた。手に取って盤面を眺めていたら、民具館の管理をされている三瀬さんが近づいてこられた。プレハブの建物時代から寄託された民具を大切に管理し、展示されてこられた方である。駄目もとで、「あのー、これは聴かせてもらえるんですか」と聞いてみた。ところが、この図々しい要求に「企画展示室に1台だけ演奏できる蓄音機があるからかけてみましょうか」と、思いがけない答えが返ってきた。
 三瀬さんは、円いテーブルの上に置いた70年近く前に製造されたというビクトローラという小さな蓄音機の蓋を開け、コルトーのショパンをかけてくれた。すごい針の音だがとてもいい音色である。確かにショパンの音楽が聴こえてきた。
 ずっと聴いていたかったが、盤を1枚交換する毎に新しい針に交換し、ぜんまいを巻く三瀬さんを見ていたらもう1曲とは言いかねた。
 明石寺へ
 いいものを聴き、とても幸せな気分になった私は民具館を出て、開明学校から光教寺の墓地にまわり蘭方医二宮敬作の墓に詣でた。敬作は、人に何をなしたかを知られようとするのではなく、人のために何が出来るかを常に考えて生きた人であったという。鎖国が国の掟であった時代に国禁を犯した師のシーボルトを守って獄につながれた。その娘のイネを愛情をもって女医に養育した。酒乱の気があったそうだが貧者に篤い医療をおこなったという。墓石の脇には長崎の晧臺寺にも墓所があることが刻まれていた。墓の前の小さな道を降りて光教寺の庭園に出た。紅葉の若葉が美しい。
 私はしばらくぼんやりと庭を眺めた後、雨山公園の前を通る昔の表参道というへんろ道を明石寺に向かった。

Copyright (C) TAKASHI NINOMIYA. All Rights Reserved.
1996-2012


中町の町並み
江戸後期から明治初期の民家がほとんど。平入り、妻入りが併存する個性的な町並みである。
それぞれの写真をクリックすると
大きくなります

新しい宇和町民具館。(町並み側)。

宇和町民具館(内部)。

民具館の模型
大正期の町並みを克明に再現している

陶器の湯たんぽ

光教寺の二宮敬作の墓

雨山公園の神武天皇像
宇和町出身の彫刻家白井雨山を記念する公園。
雨山は東京美術学校の彫塑科をつくった人。彫刻研究のため独仏伊に留学。森鴎外に私淑し、弟子に建畠大夢(たてはた たいむ)、北村西望らがいた。

明石寺への道