過去の連載記事
同じ年の連載記事




第86回 興居島紀行――松山市興居島
ある土木技術者のふるさと(一) 
 
 梅雨の終わりに、高浜港からフェリーボートで松山市興居島に渡った。新潟県の信濃川大河津分水路補修工事等、治水工事に比類のない実績を残した土木技師宮本武之輔の生家跡や菩提寺を訪ねた。

 宮本武之輔

 たまたま、ある人に資料をいただいて教えられるまで、私は宮本 武之輔という偉大な土木技術者の存在どころか名前すら知らなかった。慌てて、愛媛県立図書館に出かけ『評伝 工人宮本 武之輔の生涯』(高崎哲郎著・平成10年8月ダイヤモンド社刊)や、『久遠の人 宮本 武之輔写真集-民衆とともにを高く掲げた土木技術者』(監修高崎哲郎 社団法人北陸建設弘済会刊)という2冊の本を借り出して眼を通し、こんな人が愛媛にいたのかと、少しびっくりしたというのが正直な所だ。ふと、思いついて、宮本と同じ興居島の生まれで、高校まで興居島に暮らした同窓の整形外科医に電話を掛けてみた。すると、彼もまったく知らないという。余り当然のように言うので自分のことを棚に上げて拍子抜けした。しかし、ちょうど興居島からお年寄りの患者さんが来院されていて、その患者さんに彼が尋ねると、しっかりと宮本の名をご存じであった。

 同じ興居島でも宮本は由良の出身、彼は泊の出身のせいということもあるかもしれないが、やはり、宮本の活躍の時代と場所、そして治水土木工事という地味な仕事にその原因があるような気がした。宮本の信濃川の可動堰の仕事は東京や新潟県の方ではテレビの番組にもとりあげられているそうだが愛媛では1部の人たちにしか知られていない。
前掲の2冊の本を参考にして、宮本武之輔の仕事と生涯を振り返ってみよう。

 宮本武之輔は、明治25年松山市のすぐ沖に浮かぶ興居島の由良に生まれた。生家は旧家であったが没落し、高等小学校卒業後、船員見習いとなった。しかし、同郷の篤志家宮田兵吉翁の援助を得て上京、ふたたび就学し、一高、東京帝国大学を首席で卒業した。一時は作家を志したが兄の反対に応じて、潔く土木工学に転じた。専攻の土木工学の恩師は内村鑑三の親友広井勇教授。卒業後は戦前の内務省土木局の技術官僚となり、利根川、荒川、信濃川など大河の治水工事に河川技術者として大きな実績を残した。一時は、コンクリート工学、河川工学の第一人者として、母校の東京帝国大学教授を務めた。日中戦争下の中国占領地統治の中央機関として設けられた興亜院の技術部長を経て、昭和16年の太平洋戦争開戦直前には、内閣直属の総合国策立案機関である企画院の次長に就任した。企画院は国家総動員法案だとか、生産力拡充計画、物資動員計画などをつくった戦時統制経済の推進役だった。企画院の総裁は現役の軍人の国務大臣兼職で、陸海軍の強い影響下にあった。宮本が就いた次長職は実務面でのトップ、当時の官僚の世界における法科偏重の常識を覆した異例の抜擢といわれた。しかし、宮本は企画院次長に就任した年の12月24日に激務の中で病死する。

 経歴を見れば宮本が稀代の秀才と苦学力行の人であることは誰にでもわかる。しかし、高崎氏の著作や前掲の写真集を見ると宮本が勝ち気ではあるが、ただ出世だけを望んだ上昇志向の人ではなく、何度も大きな挫折を味わいながら、きわめて自然にその悲運を受けとめつつ、再起した人であることがわかる。宮本の生涯最大の仕事である信濃川の大河津分水・可動堰建設工事の竣工碑には、日本語と万国共通の言語エスペラントで「万象(ばんしょう)ニ天意ヲ覚(おぼゆ)ル者ハ幸ナリ」という言葉が記されている。宮本と同学の先輩で内村鑑三の門下生であった所長の青山士が撰したことばであるが、宮本が土木工学を専攻するにあたって兄に「実践躬行の二宮尊徳を尊ぶ」と宣言したことを想起できるであろう。宮本の土木工学の師広井の親友であり、先輩の青山の師である内村鑑三が英語で書いた『代表的日本人』所収の「二宮尊徳」には「“万物には自然の道がある”尊徳は常々こう語りました」とある。内村は、利根川下流大沼の排水工事に対する方途として尊徳が「自然の道を探し出し、それに従わなければならない」と語ったことを印象深く記している。広井、青山、宮本という土木技術者のヒューマンで純粋な姿勢に内村と二宮尊徳の思想や生き方が木霊しているのは明らかであろう。

 宮本は後年の戦時体制の推進者という悲劇的な栄達とは対照的に、文学や芸術に対しても絶えず深い関心をもっていたようだ。そして、何より、部下や友人、学生たちの宮本に対する評言が、軍国主義の主流に寄り添った公的な経歴とは異なる、宮本の極めて人間的な色彩にあふれた人柄の一面を照らしていてほっとする。

 豊かな文才に恵まれたといわれる宮本には、旧制中学時代から49歳で亡くなる迄綴り続けた日記がある。その日記は宮本の若い友人の手で復刻されていて、高崎氏はその日記をドイツ文学で言うところの「ビルドゥングス・ロマン(主人公の人格形成を中心に書かれた教養主義的小説)」のように何度も繰り返し読んだのだと書いている。私も1度読んでみたいものだが、今は高崎氏の著作に抜粋された宮本の文章から想像するしかない。

 御詠歌

 梅雨の終わりが近づいた日に興居島に渡った。前掲の2冊の本を導きに宮本の生家の跡や菩提寺を訪ねてみようと思った。

 高浜港に着くと、泊港行きのフェリーが停泊していた。泊と由良は同窓生に車で5分と聞いていたから構わずに乗り込んだ。朝の雨が嘘のように青空が広がって夏らしい天気になってきた。

 ほどなく出帆。左手に「坊っちゃん」のターナー島、正面には伊予小富士という興居島のなだらかな山容が見える。興居島はほんとうに目と鼻の先、ぐんぐんと正面の泊港が近づいて15分ほどて着岸した。フェリーを降りて右に曲がり、左に曲がりして海沿いに由良の方に向かって走る。振り返ると伊予小富士の山が右手に見えている。ほんとうに5分ほどで由良に着いた。車を停めて、由良の港の前で、向こうから歩いて来たおじいさんに宮本家の菩提寺観音寺の場所を尋ねた。観音寺は直ぐ先の路地を突きあたったところで、海岸の道から左に入ると写真で見た石段と山門が見えた。石段の真ん中の手すりにマニ車がある。くるくる回すとお経を読んだのと同じ功徳を積んだことになるというもの。マニ車を回しながら石段を上がった。左手の本堂は瓦が新しいが、よく見ると、写真集に載っている宮本武之輔の村民葬の古い写真のままであることに気がついた。お堂の中から、美しくよく寂びた声の御詠歌が聞こえてくる。歌詞はよく聞き取れないが「こころのまことをささげます」というところだけがわかった。本堂に近づいてみると中におばあさんたちが何人か正座しての合唱であった。死者を供養するお施餓鬼の御詠歌であった。しばらく山門の脇に立って聞いていると、休憩の時間になったのか、談笑の声がした。本堂にふたたび近づいて声を掛けると中のおばあさんたちが1度に振り向いた。宮本武之輔さんのお墓の場所を教えていただけませんかと言うと、1人のおばあさんが出てこられて、「お参りに来ておくれたんですか。私が宮本武之輔の甥の嫁です。私らが墓を守っとりますが、まだお掃除もようしとりませんのよ」とおだやかな表情で答えられた。

 宮田兵吉翁の家

 宮本の墓は今上ってきた石段の途中の眺めのよい場所にあった。墓に参った後、そのおばあさんに戦後に建てられた宮本の顕彰碑の場所を聞き、石段を下った。

 「偉大なる技術者宮本武之輔博士この島に生まれる」の記念碑はふじや食堂と松山市役所の興居島支所との間にあった。昭和29年5月全日本建設技術協会が建てたものである。碑の写真を撮った後、昼食をとるためにとなりのふじや食堂に入った。肉うどんを食べながら店のおばあさんと少し話した。宮本の生家はすでに由良小学校の敷地の中で、何も残っていないとのこと。もしかしたらと思って宮本を援助した宮田兵吉翁の家が現存するかと聞くと、住んでいる人は変わっているが家はあるといって場所を親切に教えてくれた。ふじや食堂を出て、先ず由良小学校に向かった。生家跡の写真を撮った後、小学校前の宏壮な屋敷の写真を撮った。表は門構えだが、裏の勝手口が路地に面しているのがおもしろい。坪内さんというお宅であるが、この家も宮本の近い親戚であるようだ。明治35年の建築というから由良尋常小学校に通っていた頃の宮本がまだ新しい坪内家を見知っていたことであろう。坪内家から少し行くと住吉神社がある。神社の石灯籠の前の門構えの家がふじや食堂で教わった旧宮田家の建物であった。今は神谷さんというお宅である。宮本が生涯感謝を捧げた恩人である翁が建てられた母家や蔵が現存している。私は神谷さんの家を出て山を越え島の北側に出た後、島を巡る道路を走ってふたたび由良の港にもどり興居島の小さい旅を終えた。

 次回は建設後70年を過ぎた信濃川大河津分水路を訪ね、土木技術者としての宮本について考えてみたい。



Copyright (C) TAKASHI NINOMIYA. All Rights Reserved.
1996-2012


興居島の宮本家の菩提寺観音寺。由良港に入るフェリーが見える。
それぞれの写真をクリックすると
大きくなります

由良港から伊予小富士

観音寺の宮本武之輔の墓

宮本の顕彰碑

由良小学校前の路地
(坪内家の裏側)

由良の宮田兵吉の家、現在は神谷家。

由良小学校校庭の生家跡

由良の坪内家

旧宮田家の前の住吉神

島を巡る道路からの伊予小富士

武之輔の学資を援助した恩人兵吉翁の墓所