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第97回 蘆花の今治を歩く
 
愛媛県今治市 
 徳富蘆花が青春時代の約1年半を過ごしたという今治の町を歩いた。激しい空襲に遭った今治の町に、蘆花ゆかりの建築は何1つ残っていなかったが、古い地図と海城から拡がった町割が当時の面影を甦らせてくれた。

 『蘆花徳富健次郎』
 蘆花の小説は昔から苦手だった。『自然と人生(写生帖)』の1部が国語の教科書に出ていたのを読んだり、大逆事件の暗黒裁判即死刑という明治政府の暴挙を難じた講演『謀反論』などを岩波文庫で読んだこともあった。しかし、30歳の蘆花が一世を風靡した『不如帰』など主要な作品のほとんどとは無縁なままに過ぎた。
 30年ほど前、ちょうど私が学生の頃に英文学者の中野好夫の『蘆花徳富健次郎』(筑摩書房)という蘆花伝が出た。雑誌『展望』の長期連載をまとめたものである。友人の熱心なすすめで、私も読んだ。蘆花を取り巻く時代と人々に対する視野の広さと深さ、冷徹かつ執拗に蘆花という対象に肉薄する力強さが最後まで持続していて圧倒された。蘆花がぐっと身近な存在に思えてきたのをはっきりと覚えている。この中野の伝記と野田宇太郎著『四国文学散歩 愛媛』(昭和33年小山書店新社)所収の「蘆花と今治」を手がかりにして、私は今治に出かけた。
 蘆花は明治元年10月25日、熊本県葦北郡水俣郷に生まれた。改元してわずか47日目の誕生で、中野は「まさに明治の子というにふさわしい出生であった」と書いている。生家は肥後藩の郷士格、いわゆる一領一匹の家格であって、父は徳富一敬。5歳上の兄が有名な蘇峰徳富猪一郎であった。父の一敬は明治維新の先覚者横井小楠の高弟で、師の小楠の妻が蘆花の母久子のすぐ下の妹矢島津世子(小楠とは親子ほどの年齢差があった)であった。今治の地で青年蘆花を受け入れたのが、横井小楠の遺児、言い換えれば蘆花の従兄弟にあたる伊勢(横井)時雄である。
 伊勢は同志社余科(後の神学部)で学び新島襄の篤い信頼を受けていたが、明治12年に今治教会の牧師として今治に赴任し、キリスト教の布教に対する逆風に抗し確固たる地歩を築いていた。
 蘆花今治へ
 「明治18年3月、…健次郎はふたたび熊本を後にした。…この同じ月、彼は熊本三年坂にあったメソジスト教会で洗礼を受け、…11歳年長の従兄弟で、今治教会の牧師になっていた伊勢時雄に伴われて行ったのである。…兄(蘇峰)の結婚後わずかに半年、あわただしく彼が今治に赴いたことは…健次郎(蘆花)側の居づらさが両親の苦痛の原因となり、それが直接の原因となった可能性も一応考えられぬではない」。(『蘆花徳富健次郎第1部』中野好夫)
 知的に早熟で幼時から秀才の名をほしいままにした兄蘇峰と蘆花の関係は「賢兄愚弟」の見本のような構図となり、蘆花を相当に屈折させたようだ。蘆花は明治11年夏、兄の蘇峰と京都の同志社に入学していたが、2年後に兄とともに中途退学した。一旦東京に出た蘇峰と別れて先に熊本に帰っていたが、今治に旅立つ前は、東京から熊本に帰り家督を譲られ、妻を娶った蘇峰と両親と同居していた。蘇峰が新妻を迎えて後は、いちだんと鬱屈した毎日を送っていたようだ。
 「このころの健次郎は、顔立ちこそ2重瞼の大きな眼、まだ少年らしいあどけなさすらのこる色白の少年であったが、身体は…「人並みはずれて毛深い」青年になりかけていた。…伊勢時雄につれられての今治行きの途次…彼は自涜の習慣をこの11歳年長の従兄弟に告白して、性欲処理への途についての助言を乞うている」。キリスト教への入信と今治行きは、兄蘇峰に対する愛憎がないまぜになった劣等感に苦しみながら、「半少年半成人といった思春期的危機」の渦中にあった蘆花にとって、ある種の解放感を抱かせる新天地への旅立ちを思わせるものであったにちがいない。(引用部分は前出と同じ)
 今治の蘆花
 蘆花は数え年18歳、即ち明治18年の春、従兄弟で今治教会の牧師伊勢時雄に連れられて今治に到着した。伊勢時雄は兄蘇峰と同じく新妻を迎えたばかりであったが、「母の津世子(横井小楠未亡人)、伯母の清子(横井小楠の兄時明の未亡人)、同じく小楠の「妾婢」であった「かあやん」こと寿賀女などまでが加わって大家族をつくっていた」。「今治は瀬戸内海、来島海峡を扼して、気候温暖、古くて、美しかった城下町である。…時雄は、かなりの上層町民の中にまで食い入って、信徒数百という、当時全国でもめざましい成果をあげていた。土地柄にはめずらしい洋風教会の塔からは、教勢発展の功績を認められて、アメリカの伝導会社から贈られたという鐘が、1週に何度かは朗らかな音を、晴れた南国の空にひびかせていたという」(『蘆花徳富健次郎』)
 1年4ヶ月ほどの、この地での暮らしについて、蘆花自身の筆は多くを語っていない。しかしながら、父母や兄の桎梏を離れ、自由でやや気ままな暮らしを送ったことがわずかに残された友人の書簡に伝えられている。激しい宗教的情熱に駆られて、ことさらに貧民街伝道を試みたかと思うと、たちまち信仰がさめて、自堕落な女話をしたりして荒んだ生活を送ったりもした。時雄の旅行中に友人の教会脱走事件を起こして叱責を受け、また信仰に立ち戻るが、再び思い屈して袂に石を抱き、旧天守閣の跡の石垣から海に身を投げようとして友人に止められたりもした。
 翌明治19年伊勢時雄が七年間に渡る今治伝道を終え、同志社神学部教授として京都に移ることになった。蘆花もまた時雄にすすめられて同志社再入学の途につき今治を去ることになる。
 蘆花の今治時代はかく短いが、放埒な生活と純真で熱烈な信仰生活が交錯する青年らしい迷いに満ちたもので、今治は蘆花の生涯の中でも青春時代の旅立ちの地として格別に思い出の深い土地になったようである。
 蘆花を歩く
 今治港の港湾ビル左脇に丹下健三の設計、村上三島の揮毫になる蘆花の文学碑がある。そこから、船溜まりの右手、昔の城の外堀の跡という金星川が港の前で暗渠になる場所の閘門の脇に戻ると、今治教会の碑が建っている。教会は明治14年3月17日、旧城郭内の恵美須町1丁目の水路に面したこの地に完成したが、昭和20年8月6日の空襲で焼かれた。市立図書館で複写した大正時代の地図を手に教会跡から金星川に平行して走るアーケードの商店街にいったん入る。地図にある店の名を探すが、教会に隣接した河野医院以外は重ならない。文学散歩の達人、野田宇太郎が歩いた昭和30年代初めからすでに40年以上の歳月が流れた。野田の文章を追って、蘆花が英語を教えたという、弥生町の今治中学跡を探す。弥生公園という公園と美須賀小学校の間の通りのどこかにそれはあったようだが今となってはわかりにくい。内濠と外堀の金星川の間に中堀があり、廃校になった中学はその中堀に面していたというが、野田が訪れた時代にすでに埋め尽くされていた。弥生町という町名も今は黄金町に変わっているようだ。歩いていると、水路の脇に古風な喫茶店があったり、駐車場の側に赤煉瓦の大きな壁面が残っていたりする。蘆花が身を投げようとしたという城の石垣に向かう途中で「愛媛文華館」という東洋陶磁の美術館に出会った。道を尋ねがてら、中に入ってみたがすばらしいコレクションで驚いた。
 空襲で戦前の町並みを悉く失った今治には、蘆花の時代の面影はもう海城と水路や、来島海峡の海にしか残っていないかもしれない。しかし歩いていて、それはそれでいいという気になってきた。なにも暑さのせいばかりではない。歩きながら、町の人に道を尋ねたり、喫茶店に入ったりしているうちに、新しい今治という町の個性が少しずつ見えてきたからであると思う。

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1996-2012


今治港の船溜まりと今治城
蘆花は『死の蔭に』からとられた今治港の文学碑の一節に続いて、12歳の夏に京都から下って、従兄弟の横井の下で一夏を過ごしたこと、18の時には熊本から上って1年4ヶ月の「冷熱常なき信仰生活」を送った後、「多少の悔恨を過去に遺し、多少の不安を前途に預けて、此の今治に別れを告げたと懐旧している。
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今治キリスト教会の建っていた場所
手前の河野医院は大正時代の地図にも見える。

今治キリスト教会会堂跡の碑
今治キリスト教会は金星川の水門の辺りに建っていた。

蘆花の文学碑
今治港湾ビル脇にある。建築家丹下健三の設計。碑文は『死の蔭に』よりとられた。「伊豫の今治、今治は余に忘られぬ追憶の郷である」。

金星川
金星川は今治城の外堀であったというが、今は細い水路のようになっている。

通町で見かけた赤煉瓦の壁

弥生公園

今治銀座のアーケード商店街

愛媛文華館
東洋陶磁中心の素晴らしいコレクション。唐三彩や宋磁、明の万暦赤絵などの優品を見ることができる。