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第108回 伊予砥紀行
 
伊予市上唐川 
 5月初め、帰郷してきた友人と伊予市上唐川の砥石の山に出かけた。伊予砥は地名を冠した砥石としては最古のものとされ、かつて、歴史的な名砥石として知られていた。

郡中港から
 松山を10時過ぎに出て、国道56号を西に下り、途中で、海沿いの旧道に入った。砥石の山を見に行く前に、郡中の町並みや港の古い灯台を見ておくことにしたのである。
 郡中の古い町並みを抜けて、港の脇にある五色浜神社に参った。旧萬安港の美しい石造灯台の所まで行って引き返し、かつてロシア人捕虜がおとずれた彩濱館跡を見た後、上吾川の称名寺境内にある源範頼の墓に参った。漱石や子規の句碑を見た後、寺の見晴らしのよい場所に置いてあるベンチに腰を下ろして友人と弁当を広げた。五月晴れの空の下に広がる瀬戸内海に、富士のような形をした興居島が浮かんでいた。昼をすませた私たちは、今日の目的地である上唐川の砥石山に向かうことにした。

トイシのこと
 私は、1997年の8月28日に亡くなった東大名誉教授で博物館明治村館長を務めた村松貞次郎の『大工道具の歴史』(1973刊岩波新書)と『道具と手仕事』(1997年2月)という本で、伊予のトイシが古い時代から有名な存在であったことを初めて知った。925年に撰出された延喜式(「式」とは律令国家の刑罰と行政の施行細目の集成されたもの)には各官庁への支給資財の中にトイシがたくさん出てきて、伊予砥は固有名詞で登場しているというのである。
 私が、最初に上唐川のトイシ山に出かけたのは1997年のことだ。村松の遺著とも言うべき前掲の『道具と手仕事』を読んだおかげである。「やわらかいものへの視点」という村松のモノ学に強い魅力を感じた。特にトイシについての村松の深い思いがこめられた、淡々として、切々とした文章には引き込まれた。砥部町と伊予市の砥石山探訪の節を読むとすぐに出かけたくなってしまったのである。  村松は書いている。少し長い引用をする。
 「考えてみれば、人とモノとの対話、そのモノの本性に深くかかわる濃密な交流。それこそ文化というものではないのか、と強く感じた。明治の改革で封建の諸制約が撤廃され、人もモノも自由に往来できるようになり、やがて外国からも資財が舶来するようになる以前の日本では、封建領主の領国が小国家。人もモノもそうかんたんに往来はできなかった。
 その制約された領国の小天地の中で、われわれの先人たちは、土地の天産を詳細に観察し生活の用に供してきた。あの山の木、この沢の石、あの里の草、これは何に使える、あれはどう使ったらすばらしく役に立つ、という具合に狭い天地であるが故に、代を重ねたモノの観察、応用の経験は詳細を極めたはずだ。それに人の力を加え育て上げた名産も出来上がった。それによって生業が成立し、住居も建てられ町並みも造られてきた。」
「経済はすべて数値で成果が示され、到達すべき努力目標も数値で示されるから力がある。だからこそ文化は経済や文明の論理の前には無力である。というよりは無縁であって弱い。だが、それ故にこそ強いとも言えよう。そんなことを私は砥山を巡って思ったのである。(『道具と手仕事』)
 古いものを丹念に、温めながら、新しい時代に向けて、文化の強さを文明・経済の論理に対置する、したたかで、しなやかでやわらかい視点を求め続けた村松の姿勢に私は打たれる。

トイシ山へ
 最初に訪ねた時は、道を尋ねた農家の男性が、たまたま、砥石山で採掘作業をしたことのある人であったため、トイシの層理が露出した崖が見える場所やトロッコの通う坑道の入口にある作業小屋の廃墟に案内して貰った。村松が訪れた1974年から10数年の後のことであった。山はすでに完全に廃坑になっていて、しばらく牛の放牧が行われたため牛糞の香りと牧草が腐食してたい肥になった固まりが雑草の間に隠れていて、時々足を取られた。本に掲載された美しいトイシの層理が露出した崖の辺りは、木々が繁って近づきがたい雰囲気があったため写真を撮って引き返した。
 2度目に行ったのは、それから3年後のことで、今度は1人で見当を付けて行った。小屋は益々傷みがひどくなり、空の農薬袋やわらくずが積み上げられていて、土間に雑草が生え出していて、坑道の入口を見ることもできなかった。
 称名寺から国道に戻り、砥部に通じる県道を左折して上唐川に向かう。2度目に出かけたときに工事中だった道路が完成していたため、少し迷った。2度ほど行きつ戻りつして上がり口の「豊川堤(とよかわつつみ)翁頌徳碑」の前に辿り着いた。豊川堤は文政4年(1821)年生まれの大洲藩士で、藩営の伊予砥の採掘搬送事務を一手に取り仕切った。特に唐川地区の優秀な鉱脈を発見した砥山の中興発展の功労者という。
 そこから上がった先は、道に新しいコンクリートを無造作にかぶせてあり、少し上がりやすくなっていた。

遺跡
 車を止め、友人と雑草が茂る道を作業小屋の方向に登った。道の両側には桜の木が植えられている。道を上がり切ったが作業小屋がない。少し景色も変わった感じがする。きっと取り払われたのに違いない。砥石の柱状の節理が露出した崖はあいかわらず木々の中であるが、崖の下に向けて新しい道が延びている。今日は友人と2人なので崖の下まで行ってみることにした。新しい道が開かれているので、崖までは2分もかからなかった。木々に隠されていた柱状の節理が眼前そそり立っている。なかなか美しい。幕末に今治の半井梧菴がまとめた地誌『愛媛面影』にも砥山の挿画がある。(伊予史談双書1版166頁青葉図書刊)手前が堀り出され、崩れた砥石の原石のガレ場になっている景色は今もそれほど変わっていない。崖下に道を付けたときに出来たのか、手前に大きな水たまりがある。その水たまりをよけ、左手の茂みから崖下に辿り着いた。友人はサル学が専門でいつもサルを追っかけて照葉樹林の山中やジャングルを駆け回っているので藪の苦手な私も心強い。安心してあとに続いた。私は崖下でそそり立つ石の柱を見上げていたが、友人はガレ場の上部や、崖の付け根の辺りを歩きまわり、かなり上の方まで登っていった。しばらくたって「危ないから降りてこい」と声を掛けたらようやく、手頃な大きさの屑石を1つ掴んでニコニコしながら降りてきた。
 伊予砥(いよど)は刃物の研ぎの進行に従って荒砥(あらど)、中砥(なかど)、仕上砥に分かれる砥石の中砥である。村松が訪れたときはまだ細々と砥石の製造が行われていた。「砥山は高さ1.2メートルくらいの坑道が山中に約150メートルほど入り、礦脈を追って曲がりくねっているという。ブレーキ付きのトロッコで石を運び出し、製材工場の直径約70センチメートルほどの丸鋸で4、50センチメートル角の原石を挽き漸次小さな製品にする。挽き手は3人、石塵吸い上げの扇風機が大きな音を立てていた。採石には火薬はほとんど使わない。石にひびが入るから」と前掲書にある。今は坑道がどこをどう通っていたのかもわからない。前に来たときは丸鋸が残っていたが、今はもう1カ所残る作業小屋に行かないと村松が来たときの様子を想像するのも難しくなった。
 人造砥や使い捨ての刃物に取って代わられる時代の中で、作業をする人が珪肺病になったりしたこともあり、伊予の天然トイシは産業として、ほとんど消え去ってしまい、遺跡になってしまったのである。
 「画一化は機械の論理である。大量生産の鉄則であり、正義でもある。その正義を高く掲げて材料にも画一化を要求し、製品の画一を誇る。画一ならざるものは欠陥として斥けられる。その論理の体系への異端であり反逆であるからである。だが、それによって失ったものは実に多い。量の豊かさから質の豊かさへ、やわらかいものへの視点が近来にわかにクローズアップされてきた」(前掲書)という村松の声に応える時が、おとずれていると思う。経済の論理が蹉跌すれば産業は生き残れない。しかし、人が五官を研ぎ澄ましてモノと交歓し共鳴しながら育んだモノの文化を伝える工夫は必要だろう。
 村松は和田川沿い上流約2キロの外山集落も見ているが、私は砥部町の砥山はまだ訪れていない。今は、どうなっているだろうか。1度たずねてみたいと思う。

〈参考〉
村松貞次郎『道具と手仕事』『大工道具の歴史』(岩波書店)
半井梧菴『愛媛面影』(伊予史談会双書一・青葉図書)

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1996-2012


伊予市上唐川トイシの柱状の節理が露出した崖。今も『愛媛面影』の挿絵に近い風景である。
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郡中港の石造灯台。前身の萬安港時代に築かれた。

現在の郡中港

茂みの中にトイシの層理が見える。

上唐川に残るトイシの作業小屋

崖下に倒れたトイシの原石