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第24回 日本最古の農書『清良記』の里
三間探訪 
 
 宇和島市から北に峠を1つ越えた盆地、美しい田園風景が広がる北宇和郡三間町のほぼ中央に、大森城という小高い山がある。杉や桧が植林されているが、頂上が平らに削り取られており、一見して中世の城跡であることがすぐわかる。16世紀半ばの戦国時代にこの地を治めた武将土居清良の本城跡である。

 大森城に登る
 大森城は標高315メートル、平地からの高さは160メートルあり、すぐ西隣のとんがり帽子のような小山もやはり、城跡で松峰城という。大森城主、土居清良は、戦国時代に南伊予を勢力下に置いていた西園寺氏を盟主とする国人領主たちの連合軍「西園寺15将」の1人だった。清良の領地は、宇和郡成妙郷にわずか5か村2,600余石とごく小さなものであったが、豊後の大友氏、土佐の一条氏、長宗我部氏らがこの地方を侵略したときには、郡内の諸将の中心的存在としてよく戦い、知勇兼備の名将として知られた。
 大森城の北側の麓、三間町小沢川今西家の庭先から大森城に登った。山裾の畑のあたりには、木蓮や、レンギョウ、3つ葉ツツジの赤い花が咲いている。のんびりとした里山の風景を楽しみながら5分も登らぬうちに杉、桧の植林の中に入った。小沢川からの登路は大森城の搦め手にあたる。荒れた、倒木の多い道とも言えぬような道を登っていくと、だんだんと勾配がきつくなり、杉の根元や、苔の生えた山肌のそこかしこに石垣の跡が見えてくる。15分ほど登ったところで道らしきものは途絶えた。雑木を掴み、木の根っ子を踏みながら、急傾斜を斜めに切って登ると、何の丸かはわからないが、丸があった場所らしい、石垣がはっきりとのこる平たい場所に出た。本丸にあたる頂上の西側のあたりである。土塁越しに、登ってきた急斜面を見下ろすと、石を落としたり、矢を射かけたりした昔の戦の様子がなんとなく想像できる。杉の植林が斜面を覆ってはいるが、加工された痕のある大きな石がいくつも散らばっていた。
 そこからさらに数分登ると、杉や桧がまばらに立ち、笹が生い茂った頂上に出た。幅が南北に約十数メートル、長さが南北に約90メートル。下木が繁り見晴らしはよくないが、繁った木々のすき間から南の方をのぞくと、泉ヵ森の大きな山容や、清良の廟がある龍泉寺と清良を祭神とする清良神社が小さく見えた。南側の斜面は私達が登ってきた北側の斜面にも増して急である。60度近くあるにちがいない、目で見るとほぼ垂直に見えた。
 本丸の東側の端、やや見晴らしの良い場所で弁当をひろげた。さきほど麓でみかけたミツバツツジの赤い花がここにも咲いていた。
 清良さん
 山を下り、小沢川から鬼が峠を抜け、土居中に向かった。頂上から見た清良の墓所と清良神社に詣でるのである。清良神社のことを三間の人々は親しみと敬愛をこめ「清良さん」と呼んでいる。楠木正成ばりの知謀を発揮して、他国の侵略から所領を守り、民を慈しんだ土居清良の徳を慕った村民が、300年以上の昔、清良の33回忌のときに、祠を建てて奉祀したものだ。清良は、豊臣秀吉の四国平定が成ると、さっさと城を出て隠棲した。84歳の天寿を全うしたのは、江戸時代に入った寛永6年(1629年)。世はすでに徳川家の時代で、伊達家が宇和島に入部して十数年の後のことであった。時の支配者でもなく、隠居したかつての「封建領主」が亡くなり、その33回忌を迎えたときに、決して豊かではなかった村民が神として清良を奉祀したのであった。
 日本最古の農書
 人々から敬慕された名将ではあったが、南伊予のほんとうに小さな領主に過ぎなかった清良の名が日本歴史上の人物として取り沙汰されるのは、清良の1代記である『清良記』全30巻の写本が今日に伝わり、その第7巻が日本最古の農書として注目されたからである。『清良記』は全体としては、軍記物ともいうべき内容であるが、第7巻『親民鑑月集』は、領主の立場から領民に向けた勧農書、農業指導書である。人質として過ごした土佐の国から故郷の三間に戻り、17歳になった清良が国を治めることになり、宮の下村に住む篤農家の老臣松浦宗案らに民政や農政について諮問し、宗案がそれに答申するという形式で書かれている。戦国末期から近世初頭にかけての農村と農業の移り変わりを具体的に知る上で、ほとんど日本で唯一と言ってよい史料であり、極めて貴重な農書である。兵農分離が進まぬ、集約度や経営形態が未発達な戦国時代末期から幕藩体制確立にかけての時代を映した農書であるから、限界も見える。多肥集約型の近世小農民のための技術指導書としては、元禄時代の宮崎安貞著『農業全書』を待たねばならなかった。『農業全書』は、農書としては初めて版木で刊行されたため、広い地域に普及し農業の進歩に大きな役割を果たした。
 しかし、『親民鑑月集』の行間に表れた、自然へのたゆまぬ働きかけから培われた農民のすばらしい自然観察力、そして農業改良へのひたむきな努力を見過ごすことは出来ないだろう。日本最古の農書が三間という、南伊予の僻遠の地で生み出されたことは大いに誇るべきことだと思う。
 そういう蓄積がなければ『農業全書』が世に受け容れられることもなかったであろう。
 そろそろ、日が傾いてきた。清良神社から、宮野下の町に出て、四国遍路の札所、龍光寺、仏木寺を巡った後、毛利家の庄屋屋敷を訪ねて家路についた。

〈参考〉
●三間町誌 ●日本農書全集10清良記(解題・松浦郁郎) ●三間町遺跡調査報告書(1988) ●『近世農書に学ぶ』飯沼二郎編 (NHKブックス)


大森城の模型(北面)
愛媛県歴史文化博物館


『清良記』写本
(三間町教育委員会蔵)

土居清良着用の鎧
(三間町教育委員会蔵)
愛媛県歴史文化博物館に展示中

 

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大森城の小沢川口
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大森城

荒れた登り道

低く積まれた石垣。
矢狭間がある。

丸の跡

頂上本丸から土居仲の清良神社を見る。

土居中の清良の後裔
31代土居享市氏宅

土居清良廟

臨済宗妙心寺派龍泉寺

今西家の猫

清良神社

龍光寺の参道

仏木寺

毛利家庄屋屋敷主屋



宮野下の町並み。
洋館もある。